amenorsir’s blog

絵描き物書きベース弾き。

たまご寿司

5月のとある休日の夕刻、父とふたりで、駅前にあるL字型カウンター席だけの小さな寿司屋に行った。家族行きつけの寿司屋だが、父とふたりきりで行くのはおよそ二年ぶりであった。偶然、母やきょうだいは各々の用事で不在だったのだ。

 

注文を終え、ふと見れば大将と客を隔てるプラスチックの透明の板に、ロータリーの、名前も知らない常緑樹が夕陽を浴びてもさりと映り込んでいる。そのさまを見やりながら粉末茶を淹れ、ぼうっと考えごとをしていると、突如「たまご。」と重々しい口調の言葉が耳腔に響いた。 

 

声の主は少し前から一人で来店していた隣席の初老の女性だが、アラカルト(と言うのが正しいのか分からないが)で寿司をつまんでいた。

大将は聞こえなかったのだろうか、「え?」と言った。この大将は普段見かけない白髪の大柄な人であった。女性は噛み締めるように意志を持って、「たまご頂戴」とも一度言う。

「あ?たまごね」、大将は無造作に具材ボックスからサイコロのような形に整えられたたまご焼きを取り出し、女性の皿に置く、碁を打つような指先で。

 

数秒の沈黙。女性の顔を覗き込むことはできぬが、哀しげな顔をしているであろう沈黙だった。微かなため息の音がたしかに聞こえた。

「あのう」と、打って変わってか細い声。「たまご、寿司で出して欲しかったんですが...」

「え?あーはい寿司なのね」と大将はたまごをつまみ上げるや、「放った」。

 

たまごが宙を舞っている。もさりもさりとした常緑樹の影を突き抜け、黄色いかたまりは舞っている。その光景が目の前にスローモーションで見えた。しかし弧を描いたかたまりはあっという間に落ちた。思わず少し前のめると、大将の足もと、床の端にゴミ箱があった。そこに居た。たまごは腐った魚の残骸とともに一瞬にしてゴミとなったのだ。

父と思わず顔を見合わせる。

 

女性は、「ごめんなさい」と小さく怯えたように言う。「もったいないことしたわね」

 

「いや、たまごの寿司をたまごと勘違いした私が悪いんです、私が悪かったんですよ」大将はおざなりに何度もその台詞を無感情な抑揚をつけて繰り返した。

 

ワルイノハワタシデス、ワタシガワルカッタンデスカラ。

 

投げやりな呪文。また一つ覚えてしまった。

もさりもさり。外で風が吹き、あの木が左右に首を振って揺れた。

いつの間にか、湯呑みの中の茶は冷めている。